心酔 vol.18
2024-09-22 18:30吉祥寺NEPO
昔、Headzが出していた『FADER』という雑誌を愛読していたのだが、そこに掲載されていたStereolab『Cobra & Phases Group Play Voltage in Milky Night』の制作ノートには大いに感銘を受けた。「スタジオの犬が人を噛んで大変だった」とか「ミックス中にスタジオの時間が過ぎちゃって大家が圧かけてきた」とか、そういうしょうもない話ばかりなんだけど、未だ事あるたびに見返して力をもらっている。作者が何を考えながら、実際どのように制作したのかを知ることが、別の誰かのまだ見ぬ作品制作の手がかりになる、ということを知る人間として、これを記す。
妻が美容院に行っている間、代官山蔦屋書店の旧山手通りに面した席で歌詞を書く習慣がある。つまり、ここで言う「ロードサイドテラス」とは、代官山蔦屋書店のあの席のこと。厳密には、あそこの壁に”サイ・トゥオンブリーのタイポがある”わけではないんだけど、美術書のコーナーで表紙を睨みながら「ケッ」っと吐き捨てるあのトゲトゲした瞬間は、初めてCDを出すときに呪詛を吐き吐き渋谷のタワレコ回ってたころから一貫して俺の中にある。だからこの曲は実際的過ぎて、他の曲と比べても、ナンセンス度合いが低いかもしれない(代官山蔦屋書店は大好きです。支持派です)。
「オフィーリアの屍体恐怖症」という表現に、あの書店で観た風景が心象風景として張り付いている。国内外のアート本が集められたあの一角で、ミレーの画集を見たのかもしれない。NewJeans「ASAP」の傑作MVでも、「死せるオフィーリア」のパロディが差し込まれていて唸りましたね。
(話がぶっ飛ぶんだけど、NewJeans「ASAP」のMVって、『ピクニックatハンギングロック』とか『ウィッカーマン』『ミッドサマー』みたいなフォークホラー文脈、経由でルイス・キャロルまで接続した上で、「バニー」ともかかってるわけでしょ?コンテクスト熱すぎて、おじさん殺す気なのかと思った)
このEPの多くの曲同様、ドラムとフィールドレコーディング素材以外はほぼ自宅で録音。仕事終わりとか映画鑑賞終わりの深夜、入ったことのないスタジオに「個人練習」扱いで適当に入り、根詰めてドラムをレコーディングすると、非日常的な緊張感が生まれる。満足に叩けなくて一刻も早くこの場を後にしたい俺と、J.K.シモンズよろしく厳しい条件を付けて一歩も引こうとしないプロデューサーとしての俺とのせめぎあい。へとへとで終了後に、表の自販機でカルピス飲んでる俺の顔。午前4時。
「炎へ」っていうタイトルは誰がどう見てもかっこいいと思う。レイモンド・カーヴァー的で(レイモンド・カーヴァーは妻の蔵書だったのだが、最近買い直した。買うとき妻に、あなたの曲のタイトルみたい、って言われた)。この「誰がどうみても」の連なりで構築された脳内世界は、しばしば現実とコンフリクトして辛くなる。でも、そういう、「辛さ」が創作を侵食してしまうことで生まれる歪さがあって、俺はそれを大事にしていきたいんですよ。
それはさておき。この曲は、2022年から始めた「Proibita(禁止)」という儀式の中で生まれた曲。その儀式にはドグマがいくつかあり、それに従うと「何が」「どのように」生まれたのかはっきりとしなくなってしまう。当然この曲もどのように生まれたのかが判然とせず、いつの間にか「あのときの創造力」を訝ることになった自分が相対化されている。
「ロードサイドテラス」やこの曲だけでなく、唐突に差し込まれて主役みたいな顔したノイズは、2022年の12月に駒澤大学で録音した、俺と宮永さんのセッションから多くが採用されている(他は、家で実験的に鳴らしたソロセッションの成果がほとんど)。
(酷い写真しか残っていないことに対する絶望は感じてるよ、大丈夫)
例によってこれも、編集しながら客観的に聴く頃になると、何をどうやったのか、そもそも何のつもりだったのかが判然としない。何だったんだ、一体。あの夜は、終了後に二人で閉店間際のカプリチョーザに入ったら、宮永さんが初カプリだったという(カプリチョーザは高校、遅くても大学までには体験しておくべき。そこで我々は「カルボナーラ」の概念を知ることとなるであろう。食いきれずに大量に迫るカルボへの諦念も。食え)。
フルートはdrawing4-5のIJ。IJのフルートは積極的に楽曲に取り込みたいので、色んな曲で吹いてもらったものをオンラインでやり取りした。その多くは程度の差こそあれ概ねしっくり来るんだけど、この曲に関しては「どういうつもりだ!?」とマジで難題突きつけられてる気分で泣きながら編集。俺は、ファラオ・サンダース的なものを感じながら編集してたけど、そこら辺は有識者に判断を委ねる。すげえフルート。
Pavement「Greenlander」という曲で、自らの傷を温めるように暖炉の火にたどり着くイメージがある。この曲でいう「The Fire」とは、暖炉に点ったその火のことである。しかし、爆弾は破裂する。ここでは「Wounded(傷)」という感覚にどう向き合うか、ということが唯一問われている。一貫して、レイモンド・カーヴァー的だと思ってる。決して良い読者ではないことは、先に記した通り。
本作の中では唯一、IJ、宮永さんとのセッションで生まれた曲で、drawing4-5時代の作り方に近い。バンド内ではその時のニュアンスが保持されていて、セッションする時には前半が即興的に展開することがよくある。歌詞も不定形で、そのせいか必要以上にナンセンスなはず。
この曲はMVもある(知ってた?)。基本的にMVって、演者が映っていないと不合格とみなす邪教に所属しているので、ゲリラ自撮りの俺が映っていて「わーエフェクト面白いー」とかキャッキャしてるものがそのままご自宅のテレビやPCで再生されることになる。
話は飛ぶけど、俺たちのYouTubeは、どうかしてるぐらい再生回数が少ない。本当にびっくりする。よく漫才とかで使われる「こいつのYouTube、◯◯回しか再生されてないんすよー笑」みたいな揶揄の、少ない方の、更に100分の1ぐらいしか再生されていない。コンセプチュアルアートとかのつもりはないです。そんなアートはない。もっと観てくれ、と言ってる。流石に。かわいそう。俺が。
MVのタイトルはもろに『ザ・バットマン』のパロディなんだけど、これも異常なサイズのタイポグラフィ。いつも文法チェックに引っかかるが、どうしてもこの言い回しで入れたいと思った「downsized eye」とか、「enlarged “why”」とか、英語にするとぎこちない表現が出てくるんだけど、この「サイズ」に関わる言い換えが世界の肝でもあると思ってるのであえてこのままに。
要するに、タイポグラフィと視線の暴力性について語られているということだと思う。『WAVES』っていう映画観ました?それに限らず、本作において(そして現代の多くの芸術において)、A24の存在は大きなリファレンスだったのかもしれないと思ってる。次の作品にまで引き継がれるかはわからないけど。
シングルリリース版とEP版は大きく異なるエディットになっていて、前者を「マイブラ…というよりAzusa Plane」、後者を「飛距離不足の長谷川白紙」と呼ぶ(さっき思いついたんだけど)。努力と知識と才能が足りていないのに長谷川白紙(適宜、バッキバキの電子音楽作家に置換可。Traxmanとか)を気取りたい場合、とにかく嘘のような享楽的マインドで自分を奮い立たせる以外に方法はないだろ、とか思ってたんだけど、これはそういうんじゃなく出来ました。努力と知識と才能、どれが足りててどれが足りてないんでしょうね。
それはそうと、俺は、芸術における「愛」なんて、一ミリも信じてないので。
IJがピアノで参加。テープ版と配信版でアウトロの展開が全く違うんだけど、両方気にいってる。テープ版はシングルと同じ素材を組み直し、配信版はピアノだけを活かしてほぼ新曲のようなメロディをかすかに。両者、通しで聞いてもここが一区切りになってる。
日本の友達に聴かせるよりも、海外での反応の方が良い楽曲。Silver Applesを連想したと言ってくれる人が何人かいて、確かに、その方向があったか、とも思えて嬉しい。若い頃から、どうしてもクラウトロックやりたいという気持ちが捨てられない。でも俺にはメロディがあるからな…という気持ち。
さて、この曲の直接的なリファレンスは『ウィッカーマン』の「Maypole Song」でした。気持ち的にはほぼカバーと言っても良いと思う。頭の中で鳴ってるあれを、音源化した。この曲については、もう一回トライしてみたいと思ってるので内緒にしておいてくださいね。
てか、今気づいたけど、俺は『ウィッカーマン』の参照が多い。『ウィッカーマン』を初めて知ったのも、前述の『FADER』同じ号だった。High LlamasのSean O'Haganオススメ映画として。
この曲はProibitaではなく、デイリーのスタディで生まれた古めの曲で、俺のベースが上達したからこうしてレコーディング出来た。上達というより、イメージが湧いた。新宿のナルゲキ近くのカフェで仕事してから、別の場所に移動する途中のヘッドフォンを通して「ベースの効いた曲が好き」という自分の好みを知ったせいだと、明確に記憶している。何の曲を聴いていたのかは忘れてしまった。70年代初頭の雰囲気のマージービート系だったと思う。
MVも作ろうと意気込み、Len Lye『Free Radicals』みたいなのをやりたいと思って色々実験してたんだけど、あんまり上手く行かずボツにした。この実験は後々活かすかも、って思っています。
この曲をフィニッシュさせようとフォルダを漁っている時に、林くん(drawing4-5 / compuedit / Spangle call Lilli line)と一時期音源のやり取りをしていたことを思い出した。そこにあったギターのフレーズを合わせると、全く別の文脈で鳴らした音のはずなのにしっくり来た。というか、曲が生まれ変わったように感じた。冒頭のダイナミックなアルペジオがそれ。すっかり、楽曲の顔になっているので、ライブとかであのフレーズなしだと違和感あるかもな、と思ってる。林くんはギターを上手に弾くためにいつも爪をきれいに磨いていて、それは立派なことだ。自分にはあんな音鳴らせない。
歌詞を書いている時は、フォークホラー的な光景が頭にあったんだけど、それが伝わるか、それを伝えようとして作ったかは、漠としている。そもそも「枝に登る」というタイトルが、『The Blood on Satan's Claw』の冒頭を想起させるし、終盤は『The Witch』(めちゃつよ女子高生が出てくる韓国映画じゃなくて、アニャ・テイラー・ジョイが出る方)と、フォークホラーというよりは荒廃した農園のイメージなんだろう(「なんだろう」という他人事感、我ながらビビるね)
『The Blood on Satan's Claw』という映画は、終盤のバタバタがなければ本当にミスティックで奇妙な風体の傑作だ。ジェシー・アイゼンバーグの出演する『ビバリウム』という映画の冒頭はそのオマージュを思わせた。
「こんなに上手く着地するとは」というのが個人的な感想で、作曲している時はいつも通りの楽曲だったことを覚えている。この曲はProibita直接的な関わりはないのだが、その経験がこの曲を引き寄せたのかもしれない。コード進行もフラフラとしていて、明確な規則性がないので、曲の構成がなかなか覚えられないものになってしまった。ライブに定評のない俺たちだから、本当にライブにかけられるのか不安視されている。
Proibitaの特徴に「再現不能性」というのがあって、この曲はよほど頑張らないと二度と弾けないだろうと思う。ライブでは無理なんじゃないかな。こういう曲を「掘り出す」ために始めた儀式なので、これが出来た時にProibitaの有用性を確信した。
「drawing4-5じゃなくて、Arrrepentimientoで再始動する」ことを思いついた時にいくつか縛りを設けた。その一つが「英詞」で歌う、ということ(今までは日本語詞だったんすよー)。これにはいくつもの理由があって、ここでは詳説は避けるが、とにかく、これはチャレンジであるので、英詩の勉強を始めた。T.S.Elliotから初めて、Ginsberg、Whitman、Kerouac、William Carlos Williamsと無差別に読み漁るのを、今も続けている。英語スキルが低いので、原語そのままで味わい尽くす…というところまではまだ到達していないのだが、そのからくりのようなものは少しずつ見えてきた気がする。その結果、そのからくりでは説明付かない良さ、みたいなものも滲み出てくる。
はじめ全然理解できず、気になって読み続けているのが、John Ashbery。何がやりたいのかを把握するのも一苦労。『凸面鏡の自画像』(日本語訳出てるよ!対訳だよ!)がようやくわかるようになってきた。近作はマジで未だに全くわからないのとかある。でも、「何をやりたいのか」「何をやっているのか」「何のつもりなのか」わからないもの、って、僕らの音楽との親和性が高いはずなんですよ。僕ら自身に対して、客観視するとそう見えるから。
ただ、ある時、彼による音楽評を集めた作品を読んだ時、そうなる理屈が見えてくる気がした。アートの世界に入り、音楽を聴きながら、詩を書く。そうした循環が、飛躍を産み、創作を豊かにする。
数年前、Arrrpsを開始した直後に、何の手応えもなく、友人が亡くなったりして、いよいよ何をやるべきかわからなくなり、前後不覚になって音楽が全然作れなかった時期があった。そんな時に、一度、自分が好きだったものを棚卸しして、その理由を箇条書きにしていったら、創作意欲が復活した。まさに「枯れた泉に水が戻る」感覚。それから、観まくっていた映画を更に観まくるようになり、本を読み、可能な限り詩を読み、ゲームをプレイし、そして音楽を作る。その循環の中に、創作が息衝いている感触が生まれてきたのだった。
なので、話が飛ぶのは仕方がないです(「話が飛ぶのは仕方がない」ということを書くために、この話を書いたのかもしれません)。この音楽を作るために頼ったのは「音楽体験」だけではない、ということが言いたかった。
さて、この曲にもMVがある。例によって再生回数がすげえです。57回。一年で。もう一回書きますけど、これ、コンセプチュアル・アートじゃないです。そんなアートない。見てくれ、って言ってる。このMVは「57回」よりはちょっと良いはずだよ。
Arrrpsの楽曲は基本、ごく普通のループで出来ているんだけど、風呂場鼻歌発信なのが影響して、主旋律がとめどなく動く。この主旋律のとめどない動きを、なるべくキープしようと思い、色々苦労してそのメソッドも我流で開発した。とても大事なこと。その律動が、いつの間にかエモーショナルな瞬間に昇華されることを知っているので。
2分未満の楽曲で、俺たち流の「ファンク」であり「ポジパン」だと思ってるんだけど、伝わるか伝わらないか半々ぐらいの気持ち。伝わらなくても大方問題ないかな。精神世界に対する自分なりの貢献。
『Teenage Superstars』というC86とかあの頃のグラスゴーシーンのドキュメンタリー観て、答え合わせしているような気分になった。Steven Pastelは俺のロールモデルの一人なので。身体性・技術では手の届かない位置にあるものを、「でもやるんだよ」の精神で、届かないまま手繰り寄せようととする。こういうことはやってる側が冷静に言うべきではないんだけど、この曲に関してはやってる最中にファンクを意識した瞬間すらなかったですわ。
タイトルは歌詞から。アゴタ・クリストフ『悪童日記』が頭に浮かんだのは後付で、最初「Five Misfits(五人の悪童)」と、『四つの署名』とか『オレンジの種7つ』みたいなシャーロック・ホームズオマージュが含まれていたんだが、どう頭を捻っても「五人」である必要が皆無なので、きちんと意味に合わせに行きました。
という感じで、Arrrepentimiento『Hesitation in Syllables』。ぜひご一聴を。配信ではとにかく聴きやすく、テープではとにかく聞きづらいものを目指して作りました。
「配信ではとにかく聴きやすく、テープではとにかく聞きづらいもの」って、聞こえたぜ。見間違いではないです。聞きづらいけど、驚くようなものを。
かれこれ2年ぐらい、次の作品を作っているんですが、その間に先述のProibitaという儀式を開始したりした成果として、ちょこちょこ曲が出来てきたりして、どこにも行き場のない曲を「チャッとまとめよう」という感覚で開始したのが「Syllable」プロジェクト。だから、この作品は自分の中で「次の作品に取り掛かる前の在庫セール」的な建付けで作り始めたものでした。とは言っても、リリースを強制されているわけではないので、「好きな曲だからなんとかしたいなー」と思ってる曲たち。「やるならテープで」「シングル版をいくつか出して」「MVも作って…」とか思いつきで広がってしまった結果がこれなので、我ながらドン引きなんですが、何かが転がり始め、多分俺たちの総合力が1.2倍ぐらいになった。元が微々たるものだから、小さいままなんだけど、繰り返せば大きくなる。前作『Birth of Significance』もそうだったんですが、やっぱり何かを形に残すと重い腰を上げた分だけ人に届くようになる、というのが実感としてある。これから、更に届いていくことを願って。
「数分で語り尽くせる着想を五百ページに渡って展開するのは労のみ多くて功少ない狂気の沙汰である。よりましな方法は、それらの書物がすでに存在すると見せかけて、要約や注釈を差しだすことだ」
ホルヘ・ルイス・ボルヘス『八岐の園(伝奇集)』
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